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Sessou-no-ki : Sessou’s Blog
染織家・葛布帯作家 雪草のブログ

プリミティヴ・アート

先日、フランツ・ポアズの『プリミティブ・アート』を読み終えた。この辞典のような本はできれば手元に置いておきたいところであり買おうと思えば買えそうではあるが、分厚くやや高価であるために今のところは必要な時に図書館から借りてくることにしている。今回借りることになった経緯については以前こちらで書いていて、そこから前に借りた時に書いたブログにもリンクしている。正直いって前回は本を読んだとは言い難いくらいに全く読めておらず、ほんの数ページを少し眺めた程度でほとんど理解ができなかった。当然、何が書かれているかもほとんど分かっていない。しかし今回はとにかく初めから終わりまで通して読むことができたし、理解とまではいかないが少なくとも何が書かれているのか?のおおよそは掴むことができた。

話が飛ぶが2019年の個展開催の時のテーマは「無地とその周辺」であった。当時私は自分の中に文様や柄を入れる必然性が何もないことに気づいてしまい、もう無地しか織れない気持ちになっていた。以来、文様について考える過程で文様の根源的な起こりに興味がいった。人類がものに色や柄、文様を入れたいと思ったのはなぜなのか。最初にそれを施した人物は一体何を考えていたのだろう?

 もちろん確実なことは当時の人に聞くでもしない限り分かるはずもない。しかしこの本はそこに限りなく近づこうとするための膨大な事例と考察がまとまったものだった(ことが今回にしてやっと分かった)。特に北米先住民族に詳しく、2023年秋に行ってきた「北方民族の編むと織る」で実物を見たものが図版としていくつか掲載され詳細に考察されていたのは感慨深かった。この本一冊を読んだところで「プリミティヴ・アート」について理解したとは到底言えないわけだけれども、本州以南の日本とは基層となる気候文化の違う北海道は南方と北方の文化の入り混じる特異性があり、中でもとりわけ衣服の形と素材の狭間具合が私個人的には大変興味深い地域で、それを「葛布の帯地」という形で表したいというのが最近の大きな関心ごとである私にとって大変示唆深いものであり、読み終えて、数年来の謎であった「人類はなぜ文様を入れたかったのか」または、その必然性について、自分なりに少しは考えられるようになったことは意義深い。

 色々面白くていちいちを書くとキリがないが、中でも特に今回の大きな発見として書き残しておきたいのは、柳宗悦が民藝を語る内容とほぼ全く同じことが、この本のあちこちに散りばめられ説かれていたことだった。フランツ・ポアズは学術的知見から、柳宗悦は宗教哲学的知見から、なので一見真逆の立場のようでありながら、言っていることはほぼ同じなのである。登山で言えばルートが違うが登っているのは同じ山であり頂点も同じ、そしてフランツ・ポアズは山頂から下っているのに対し柳宗悦は山頂を目指して登っている、というイメージだ。二人は決して出会うことはなく、すれ違うこともない。だが、同じ山にいて同じことを言っている。それが私にはとても面白く痛快とすら感じられた。柳宗悦は思想家だから当然そうなるのだと思えたことは私の中では大きな発見だった。以来、民藝周辺のものやアイヌ民族の造形芸術の見え方が変わったのも大変興味深い変化である。だいたい、「極めれば同じ」は私の座右の銘でもある。大抵のこと、特に主義主張系、手法系のことは、両極端に見えるものでも極まれば同じなのである。それがここでも証明された。

ちなみに座右の銘(あるいは持論)は他に「意図して意図しない」「不安定は安定」「手をかけて損なわず」「優れたものには相反する性質が同居する」などがある。それについては、いつかまた話せたらと思う。

  • 読後の新たな謎-人はなぜ何かを「美しい」と感じるのか。芸術と芸術でないものを分ける感覚はどこから来るのか。要するに、美学。

梅の苗木に一目惚れして衝動的に連れて帰ってきてしまった。自宅の庭の梅で梅干しを作るのは長年の夢だ。「豊後」という種らしい。
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